村長ブログ

思ったことを書いてます

仮面の女と老婆 上

 

あるところに女がいた

彼女はいつも仮面をつけていた

周りは彼女を、変な人だと思い

近づかなかった

 

その為、彼女には友達が

1人もいなかった

 

唯一親しくしてたのは

近くの森に住むカエルだった

 

毎日カエルのもとに行った

 

カエルは、

仮面のことについては何も聞かず

いつも色々な話をしてくれた

カエルはとても物知りだった

 

「この街のもっと遠くには、この池よりうんと大きい水溜まりがあるんだ。そいつは海って言ってどんな大きなものでも飲み込んじまうほど深いのさ」

 

「この世界には山というものがあって、それはあそこの丘より100倍も大きくて、雲よりも高いのさ」

 

 

「この池の近くには、もの凄く意地悪な老婆がいて、意地悪ばかりしていたからいつの間にか皆んなから嫌われて友達が1人もいないのさ。

だから、その老婆には近づいちゃダメだよ」

 

カエルは何でも知っていた

 

彼女はそんな

カエルが大好きだった

 

 

ある時

カエルは言った

 

「何で君は仮面をつけているんだい」

 

彼女は答えた

 

「私が、生まれてすぐに私の顔を見た母親が仮面を付けたの。」

 

カエルは聞いた

「何で仮面をつけたんだい」

 

彼女はしばらくの沈黙の後

こう答えた

 

「私の顔が醜いからよ」

 

「私が隠れて仮面を取ろうとすると酷く怒られたわ」

 

「お前は仮面を取ってはいけない、仮面を取って素顔を見てしまったなら絶望で生きていけないだろうから、そう言われたわ」

 

 

そしてカエルの目を見た

 

 

カエルは彼女の目をじっと見て

優しく言った

 

「もし君が仮面を取って、僕が君を嫌いにならなかったら僕と結婚しておくれよ」

 

彼女は答えた

「カエルと結婚なんて馬鹿げてるわ。どうせ貴方も私の顔を見たら逃げていくもの」

 

「でもいいわ」

「どうせ貴方も私から離れていくんだもの」

「見せてあげるわ」

 

そう言って仮面を取ろうとした

 

 

 

その時

 

池の奥から老婆が現れ

彼女に向かって話だした

 

「カエルに見せる前に私に、

 その顔見せておくれ」

 

彼女がびっくりして黙っていると

続けてこう言った

 

「私は、意地悪だと言われているが意地悪なんてしたことはないんだよ。皆んなが私を虐めてこの森に追いやったのさ」

 

「だからお前の気持ちはよくわかる。私ならお前の顔を見ても醜いなんて思わないよ」

 

 

彼女は迷ったが

自分と同じ状況の老婆にひどく同情してしまい

カエルより先に顔を見せることにした

 

 

彼女は、老婆にだけ仮面の下から

ゆっくり顔を見せた

 

老婆はニヤッと不気味に笑った後に

こう続けた

 

「何て綺麗な顔してるだ」

 

「お前の、母親は大嘘付きだね。お前のことが大嫌いだったんだろうねえ。だってお前はこんなに綺麗な顔をしているんだもの。嘘だと思うなら今夜、皆が寝静まった後ひっそりと自分の顔を見てみたらいい」

 

 

彼女は少しの沈黙の後

答えた

 

「わかったわ」

 

「私は今夜、自分の顔を見るわ。だからカエルさん、私の顔を見るのは明日まで待ってほしいの。私が自分の顔に、絶望して命を絶っていなかったら、必ず会いに来るから」

 

カエルは寂しそうな顔をして

ゆっくりと頷いた

 

その晩、皆が寝静まった後

彼女はひっそりと自分の顔を見た

 

ゆっくりと仮面を上げると

自分でもびっくりするほどの綺麗な顔だった

 

街にいるどんな女の子よりも

綺麗な顔をしていた

 

あの老婆の言っていたことは

本当だったのだ

 

 

次の日

彼女は小さな池に現れることはなかった

 

 

いい天気とは

 

いい天気とは何なのだろうか

 

僕の思う

いい天気とは晴れである

 

晴天の空を見てると

最高に気分が良くなる

日本人ならそういう人も多いのではないか

 

逆に

雨の日は悪い天気である

 

洗濯物も乾かないし

靴も濡れるし

傘も差さなければいけない

 

最悪だ。

 

 

 

しかし

雨の降らない国の人からしたら

雨が降ることはとても

喜ばしいことではないか

 

そんな人達からすると

雨が降る日こそ

いい天気、最高の天気なのではないだろうか

 

同じ雨なのに環境、立場などが違うと

こうも考え方が変わってくるのだ

 

人間とは不思議な者である

 

 

 

少し話は変わるが

僕の仕事で起きた話をする

 

僕の職場は若い人間は僕しかいない

 

 

年配の方が

毎回、僕に細かくて面倒くさい仕事を

お願いしてきた

 

僕は、

「自分でしたくないから僕にやらせているんじゃないか?何で毎回、自分でやらないんだ」

と思っていた

 

毎回、イライラしながら

その仕事を終わらせていた

 

 

そんな時

 

ふと

 

この天気の話を思い出した

 

もしかしたら

 

僕は、その年配の人がこの仕事が嫌で

僕にやらせていると思っていたが

 

年配の人には、

何か理由があるのではないか?

 

 

 

そう思い

 

「この仕事、大変ですよね、

 面倒くさいですよね」

 

と年配の人と話してみた

 

すると

年配の人は言った

 

「いつもごめんね、私がやると、老眼で細かい字が見えないから時間が掛かるんだ」

 

 

恥ずかしそうに言った

 

自分が、老眼で仕事を任せてると言うのが

年配の人にとっては、

とても恥ずかしかったんだな

 

 

その時感じた

 

それと同時に

年配の人に、申し訳ない気待ちになった

 

 

人には人によって見えてるもの

考えてることが違う

 

誰もがわかっているが

いつしか忘れてしまう

 

十人十色

 

十人いれば十人それぞれの色がある

十人それぞれの見方、理由がある

 

そんな優しい気持ちで

人と接することが

 

毎日がちょっと

幸せになる気がしますね。

 

 

 

 

 

夢十夜 第一夜

 

夏目漱石夢十夜 第一夜を見た

 

なんとも言えない気持ちになった

 

僕なりに、この話の本質を考えてみた

 

こんな文がある

 

わたしが死んだら

土に埋めて下さい

大きな真珠貝で 掘って
星の破片を 墓標に置いて

墓の傍で 待っていて
また 逢いに来ますから

日が昇るでしょう
それから 日が沈むでしょう
それから また昇るでしょう
そうして また沈むでしょう

百年 待っていて
きっと 逢いに来ますから

墓の傍で 待っていて
また 逢いに来ますから

 

 

 

大きな真珠貝で穴を掘る訳だが

 

真珠貝で穴を掘るのは

とても大変なことだろう

 

真珠貝とは愛すべき貴い女性の象徴である

 

愛すべき人のために人が1人、入る穴を掘る

 

 

男が女をとても愛してることがわかる

 

 

 

星の破片を墓標に置いて、とある

 

星とは宇宙にあり

土に埋める事は不可能だ

 

地球に落ちてきたちっぽけなものを

探し出して埋める事はできるが

それはとてもとても大変なことだ

 

愛する女のためでなければ

到底出来ることではない

 

 

墓の傍で 待っていて…

から最後までのところだが

 

男が百年生きることは、

百年待つことは、

恐らく出来ないであろう

 

 

それでも男は女の言葉を信じて

待つのだ

 

もう会えないと

わかっていたかもしれない

 

嘘かもしれないと思いながらも

待つのだ

 

愛しているから

 

 

その後

 

女を埋めたところから

百合の花が咲き

 

百年が経っていたんだなと気づく

 

 

百合の花だが

 

(百)に(合)うと書いて

ユリと書く

 

百年経って会いにきてくれた

この花は女なのだと男は感じている

 

 

 

この話だが

男と女 天と地 生と死

のような対照的なものを描いていると思った

 

そしてこの対照的なものが

一つになるのは

 

 死 という

 

ゴールを迎えてのことだ思う

 

 

天と地だが

 

星としての役目を終えたものが

地球に落ちてくる=死んだ星

と考えることができる

 

死んだ星のみが

土に帰ることができる

 

 

男と女だが  

 

けして

同じになることはないのだが

死をもって、肉体がなくなり、魂になり

男も女もなく、一つになる

 

生と死だが

 

生きてるいるものは

その一生を終えて、死となる

 

 

この様に死とは全てのゴールなのだ

 

しかし

愛というものは、生も死も、

関係なく繋がれていく

 

生きてる者が死んだ者を

思うことはできるし

 

死んだ者が生きている者を

思って死んでいったのなら

生きてる者を思うことはできるはずだと思う

 

つまり

死というゴールで全てが一つになるが

 

愛というものは

生も死も、男も女も、関係なく

繋がれていくものなのだ

 

この世で全てに関係なく

愛とは不変なのだ

 

この話は

愛の素晴らしさ、大切さを

伝えてくれる

 

そんな話だと思った。

幸福論 

ヘッセの幸福論を読んだ。

 

一言で言うと

難しい過ぎる…

 

ヘッセの考える幸福の意味を

言葉で理解するにはまだ早すぎた

かもしれない

 

でもなんとなく分かった気もする

 

何故なら

僕も、幸福を体験しているからだ

 

ヘッセの言う、幸福と類似しているものを

記憶の中から必死に探した

 

そしたら思い当たることがあった

 

作中にこんな一文がある

 

「完全な現在の中で呼吸すること、天球の合唱の中で共に歌うこと、世界の輪舞の中で共に踊ること、神の永遠な笑いの中で共に笑うこと、それこそ幸福にあずかることである。多くの人はそれをただ一度だけ、あるいは数回だけ体験した。しかしそれを体験した者は、一瞬のあいだ幸福であっただけでなく、没時間的な喜びの光輝やひびきのなにがしかをも得てきたのである。」

 

これによく似た体験をしていたのだ

 

僕は、大学時代ボクシング部に入っていた

 

ある時、練習中にヒートアップしていき

本気の殴り合いになっていた

 

しかし

疲れなかった。痛くもなかった。

パンチも見えていた

 

どこにパンチが来るのか

不思議とわかった

 

楽しくて楽しくてしょうがなかった

 

その時

心から笑顔でボクシングをしていたと思う

 

時間が経つのも忘れていた

 

終了のブザーも聞こえなかった

 

周りに声をかけられて

初めて現実に戻った

 

あの時、

自分がその空間をしているかのような

神になったかのような

宇宙の一部になったかのような

感覚だった

 

これこそ

「世界の輪舞の中で共に踊ること」

に近いのではないか

 

そんな気がする

 

そして思い出せないが幼少期に

何度かこれに近い体験をしている気がする

 

あれを幸福というのならば

 

それ以来、

僕は幸福を感じられたことはない